「騎虎の勢い」考

 プーチン大統領と習近平主席の会談で、中国はロシアが進めるウクライナ戦争についてのコミットは巧妙に避けた。中国は「騎虎に乗らず」と表現しているそうだ。虎(ロシア)の背に乗る(ウクライナ戦争にコミットする)と降りることができなくなるので、細心の注意を図らなければならない、という考え方だ。

 この「騎虎」について調べてみよう。日本では通常「騎虎の勢い」という言葉を使い、勢いが盛んで誰も止められないような状況を指す言葉として使われる。これは誤用だ。

 正しくは「騎虎の勢い、下るを得ず」(騎虎之勢,必不得下)という。これは,隋の楊堅(文帝)の后であった独孤氏(独孤皇后)の言葉である。

 この言葉の背景を述べる。(AMEBA History of Worldより引用)
 「中国の南北朝末期に建国された北周は,第3代皇帝・武帝の治世には,北斉を滅ぼして華北を統一し勢力を強めた。しかし,武帝の死後,つづく宣帝は即位後まもなくして7歳の息子・静帝に譲位し道楽に熱中し、政治を顧みなかった。そこで、宣帝の皇后の父であり,北周随一の実力者であった楊堅が,政治の実権を握るようになった
 580年に宣帝が没すると,後にはまだ幼い静帝が残された。実権を掌握した楊堅は,北周の帝位を奪って自身のものにすることを考えるようになったが,決行することにはためらいがあった。
 このとき,楊堅の后であった独孤氏は,夫・楊堅に対して「騎虎の勢い,下るを得ず」という言葉を人を通じて伝えた。すなわち,虎の背に乗った者は途中で降りれば食われてしまうため降りることができないように,機の熟したこの情勢においては止まることはありえず,決断が必要であることを説いたのである。
 この言葉を聞いた楊堅は決意をかため,581年,静帝に迫って帝位を譲らせ,自身が皇帝の地位についた。こうして,楊堅によって,新たに隋王朝が創始されることになった。」

 この話はマクベスとレディ・マクベスにそっくりだが、楊堅(隋王朝の開祖である文帝)と独狐(文帝の后)の場合には、一応、隋王朝が創始された。

 隋は文帝の子供である煬帝の時代には滅亡してしまう短命王朝だが、遣隋使が訪問するなど日本との関係は深く、日本が当時は先進的な中央集権王朝を作るモデルになった。そういう意味では文帝を焚きつけた独弧氏の「騎虎の勢い、下るを得ず」は、日本に大きな影響を与えた言葉でもあったのだ。

(2022年9月18日 日曜日)