今日はプラベートな話を記すのをお許しいただきたい。
タイに旅行中に従兄(いとこ)から電話がかかった。嫌な予感がした。従兄のお母さん(つまりわたしにとっての叔母)が亡くなったとのことだ。103歳で天寿を全うされたとのことだった。
叔母は私の母の一つ下の妹だ。叔母の息子(電話をくれた従兄)と私は同じ年生まれだ。私は叔母に昔から随分かわいがってもらった記憶がある。小さいころ小遣いを良く貰った。大学生になっても年金生活だと言いながら小遣いを貰った記憶がある。母は4人兄弟姉妹の長女で、母、亡くなった叔母、既に他界した二人の弟の4人だった。この兄弟姉妹はとても仲が良く、自分は一人っ子なので仲の良さがうらやましかった。
叔母の記憶は母の記憶と重なる。
私の母は2003年に数えで83歳で亡くなった。その当時は一族の中では一番長生きだったが、叔母にははるかに追い越された。母が亡くなってからは、毎年長岡に盆参りに戻っていた。毎年一時間ほどだが叔母に会えるのを楽しみにしていた。
2019年の8月に最後に叔母に会ったときに思いがけない話を聞いた。私の母は長岡の高等小学校を出たあと東京の看護学校に入っていたそうだ。そこに父親が危篤になり母親(私にとっての祖母)から学校をやめて長岡に戻って来いと言う連絡があり、戻ったそうなのだ。この話は母から一度も聞いた事が無かった。
一家の大黒柱の父親を失い、まだ年端の行かない姉妹はどんな風に考えて人生を歩もうとしたのだろうか。やや年の離れた二人の弟の面倒も見なければならなかった。母は長岡の洋品店に勤め、叔母が家の近くにあった理研の工場に勤めた。
実は私は母の学歴に引け目を感じていた。小学生の時に「何でお母さんは高等小学校までしか行っていないの?」と聞いた事があった。その時母は弱ったような顔をしていた記憶がある。叔母に話を聞いて初めてわかった。当時小学校を卒業したばかりの姉妹が働いて家族を支えなければならない事情があったのだと。
叔母はその後、職場で出会った人と結婚し、その方が工場を立ち上げるのを支えた。自ら旋盤を動かし、社員の面倒を見て、総務経理も担当しで身を粉にして働いた。会社は立派な中小企業に育った。その後大分たって、夫が脳梗塞で倒れた後は、自宅で介護をしてきた。そんな働きづめの人生だった。
お葬式では叔母の一族が勢ぞろいした。お子さん二人、孫4人、ひ孫8人(全員が学齢期)が参列した。親子、兄弟でいがみ合い、一族がそろう葬式の方が少ない昨今だ。叔母は仲の良い立派な家系を残された。真に素晴らしい人生だったと言うべきだ。
叔母が亡くなった103歳までには私もまだ30年以上ある。ひと踏ん張りできそうな希望が湧いてくる。学齢期の子供たちは、どんな未来を切り開いて行くのだろうか。日本の未来もまだ捨てたものではないかもしれないと思った。
最後までこんな機会を与えてくれて叔母さんありがとうございました。ご冥福をお祈りします。極楽で、私の母と思い出話に花を咲かせてください。
2024年1月20日 土曜日