ベルリンの壁崩壊から30年
1989年11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。ドイツでの式典を映すテレビを見ながら、あの頃自分は何をしていたのかを思い起こす。はて、自分は何をしていたのだろうか。
1989年5月に3年間赴任していたタイから帰国して銀行の資本市場部に配属され、海外に新規に証券ビジネス拠点を作る仕事をしていた。タイの3年間では、営業面で赫赫たる成果を上げていたと自負しており、自分は営業向きの人間だと思っていたので、またまた本部のデスクワークかよと、げんなりした記憶がある。
時はバブルの真っ盛り。家を買おうかと検討したが、猫の額にポチの家のような物件が1億円もしてとても手が出ずあきらめた。株価はうなぎのぼり。89年末に日経平均終値の史上最高値である38,915円を付けたのはご高尚のとおり。あの頃は証券会社や有名な経済評論家の誰もが60,000円は目前などとはやしたてていたのだから、人間の予知能力は知れたものだ。
ベルリンの壁崩壊のまえにソ連の崩壊があり、東欧のソ連の衛星国の民主化があった。これからは「世界中で、自由と民主主義を基礎とする、グローバリゼーションが進展する」ということに誰も疑いを抱かなかった。バブルで湧く日本では、日本経済のますますの拡大に疑問を抱かなかった。
いま思い返してみると、1989年は政治の転換点だけでなく経済の転換点でもあったのだ。日本は1986年のプラザ合意による円高を契機に、実力以上に贅肉をつけすぎたのだろう。碁で言えば、ほしくもない石を取らされて喜んでいたのだ。
日本はある程度の制限がある中でちまちまとした勝負では力を発揮する。制限が外れたグローバリズムと新自由主義の世界では力を発揮しにくい。当時は「都銀13行は1行たりともつぶさせない」と大蔵省は言っていた。電器産業でも10社程度が同じような製品を作って存続していた。いまでは、そのうちの何社が国際競争力を維持して生き残っているだろうか。
大きな変化の一歩が1989年だったが、将来を見通せる人は自分を含め日本には居なかった。
(2019.11.11)